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活字耽溺者の書評集

翻訳ミステリ、サスペンス、ノンフィクション等の書評。産経新聞書評欄に不定期で寄稿。

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』ジェームズ・M・ケイン 田口俊樹訳 新潮文庫

郵便配達は二度ベルを鳴らす (新潮文庫)

“二度”の運命を、かろやかな名訳で

 本書は、古典的名作小説の新訳である。アメリカでの初刊は1934年、初邦訳は1953年で、以後は、帯の惹句に「映画化7回、邦訳6回、永遠のベストセラー!」とあるように、全世界で長く親しまれてきた。しかし、タイトルはなんとなく知っていても、実は読んだことがないという方は結構おられるのではないか。

 物語は、主人公フランクの一人称で語られる。根無し草で、何度も警察の厄介になっている平凡な青年フランク・チェンバースは、偶然通りかかったロスアンジェルス郊外の安食堂で、ギリシャ人店主に口説かれ、従業員として働くようになる。だが、フランクの目当ては店主の肉感的な妻コーラであった。すぐに恋仲となったフランクとコーラは、協力して亭主の殺害計画を立てる。一度目は失敗し、二度目は自動車事故に見せかけて見事に成功するものの、皮肉な現実が二人を待ち受けていた……。

 ごく単純なストーリーに、ありふれた舞台と登場人物で、長さも中編程度といったところ。アメリカでの発表当時は、過激な暴力や性描写があるとして話題となったそうだが、今読むとそうでもない。悪意や重苦しさに満ちているわけでもない。むしろ、フランクの語り口が非常に乾いているために、不思議なかろやかさすら感じられるくらいだ。

 本書の最大の魅力は、このかろやかさによる「転換」である。犯罪小説でありながら、愚昧なフランクとコーラへの共感を読者に呼び起こしてしまうのだ。

 たとえば、ギリシャ人店主の殺害動機は、コーラが「脂ぎった男の子どもを産みたくない」から。フランク自身は、特に恨みを持っていない。ギリシャ人は、鈍いところはあれど、殺されるほどの落ち度はどこにもなく、二人のエゴのために死ぬのである。同情の余地は微塵もないと言っていい。が、読み進めていくうち、二人は、一緒に幸せになりたい、現状を脱却したいと純粋に願い、足掻いているだけなのだと気付く。

 二人には、才能もなければ学もない。フランクは、頭の回転は早いものの、放浪癖があり、コーラは、真面目であるが短絡的でもある。後半、二人は裁判にかけられるが、そこで登場する検事と弁護士の怜悧さと狡猾さが、彼らの愚かさをより際立たせている。

 なお、作中に郵便は一切登場しない。訳者あとがきによると、タイトルは、著者ケインが、本書の執筆中、親しいシナリオライターから、「家で、プロデューサーからの返事の郵便を待ち受けてもいなくても、郵便配達は二度ベルを鳴らすからわかってしまう」という辛苦を聞いて、ひらめいたとのことである。

 裁判後に束の間の幸せを得た二人だったが、幾許かのすれ違いを経て、二度目の運命により破滅に向かう。そう、タイトルの「二度」というモチーフは、殺人が二度目に成功したことを挙げるまでもなく、物語の随所に、伏線として散りばめられているのだ。長年ハードボイルドの位置付けで評価されてきた本書だが、新訳によって、ミステリや恋愛小説の側面がより強調されたようだ。

 そしてこの新訳が、この上なく素晴らしい。80年前の作品でありながら、フランクもコーラも、現代の若い男女そのものである。田口俊樹氏は、ローレンス・ブロックの著作やロアルド・ダールの新訳など、数多くの翻訳を手掛けているが、訳者あとがきで「訳者冥利に尽きる」と述懐しているように、本書でその技術を遺憾なく発揮している。不思議なかろやかさは、ここから生まれていたのだ。

 

 ※本書とほぼ同時期に、この『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は、光文社古典新訳文庫から、池田真紀子氏の新訳でも発売された。値段の違いはあるが、読み比べの価値は十分あるだろう(本書の「邦訳6回」の文句には含まれてはいないようだ)。加えて、こちらでは『「マルタの鷹」講義』などの著作で有名な諏訪部浩一氏の考察が載っている。翻訳者を目指す方には、避けては通れない名作だと言える。

 

郵便配達は二度ベルを鳴らす (新潮文庫)

郵便配達は二度ベルを鳴らす (新潮文庫)

 

 

郵便配達は二度ベルを鳴らす (光文社古典新訳文庫)

郵便配達は二度ベルを鳴らす (光文社古典新訳文庫)

 

 

郵便配達は二度ベルを鳴らす (新潮文庫)

郵便配達は二度ベルを鳴らす (新潮文庫)

 

 

郵便配達夫はいつも二度ベルを鳴らす (ハヤカワ・ミステリ文庫 77-1)

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郵便配達は二度ベルを鳴らす (集英社文庫 赤 35-A)

郵便配達は二度ベルを鳴らす (集英社文庫 赤 35-A)

 

 

郵便配達はいつもベルを二度鳴らす (1953年)

郵便配達はいつもベルを二度鳴らす (1953年)