活字耽溺者の書評集

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【書評】『ラマレラ 最後のクジラの民』(ダグ・ボック・クラーク/上原裕美子訳/NHK出版)

ラマレラ 最後のクジラの民

※この記事は週刊読書人からの転載です。

躍動感と端正な心理描写が光る大著

 本書の一場面、ある日のクジラ漁の終わり間際の引用から始めたい。

 ヨセフは網をつかみ、肺いっぱいに空気を吸い込んで、真下の海に飛び込んだ。クジラの血で真っ赤になった海中は先が見通せず、手探りで巨大な死体に近づく。水を蹴って深く潜ると、唐突に、たちこめる血の霧の下に出た。海水はより冷たく、アクアマリンの色味を帯び、視界が開ける。深紅の渦がヨセフの皮膚をかすめていく。見下ろす先は底なしの闇だ。クジラの肉の破片が海底へと沈みゆくのを、魚たちが貪欲に追いかけている。

 鮮やかな描写だが、この本は小説ではない。ノンフィクションである。著者が語り手(このシーンではヨセフ)の見聞きした世界を尊重しつつ、微に入り細を穿つ形で再現しているのだ。言うなればノンフィクション・ノベルだろうか。なお、登場人物たちに概要を説明し、ファクトチェックも入念に行われている。それでいてほぼ全編通してこの躍動感、臨場感だから、もう堪らない。
 
 説明に戻ろう。本書は、2011年にインドネシア・レンバタ島に初めて降り立った著者が、足かけ八年、世界で唯一の伝統捕鯨を行うラマレラ村の民の取材を敢行、彼らの文化を色濃く浮かび上がらせた迫真のルポルタージュである。先述の通り、著者はほぼ黒子に徹し、ラマファ(船の正銛手)を目指す若者やその妹、村随一の銛手であり船大工の老人、ラマレラの行く末を懸念するまじない師等々、ラマレラの様々な人々の視点をカットバックして語られる、一種の群像劇ともなっている。
 
 ラマレラの文化基盤は祖先崇拝だ。最初の人々が定住し始めたのは四百年ほど前で、祖先から伝えられるクジラ狩り手法と様々な伝統儀式や慣習を何世代も受け継ぎ、独自の生活形態を維持してきた。クジラ漁が解禁される直前に祖先の霊と交信するクジラ乞いの儀式や、漁で船が転覆・船員が負傷してもそれは祖先が怒っているからだとする考え方などがそうだ。マッコウクジラを一頭狩れば数週間は食べて過ごせる上、古くからのしきたりとして、鯨肉は仕留めた者とその家族だけでなく村民全体に行き渡るようにすべしという、近代社会ではあまり見られない利他的な互恵システムがあり、不漁でも飢え死にすることはない。

 また、野菜や果物、米といった、海岸での栽培が難しい食料は、レンバタ島の山の民のところへ鯨肉や魚を持って行き、市場で物々交換をする。そうして、ラマレラの人々はほとんどが村を離れず生涯を終える。
 しかし、現在、彼らは未開の部族ではなくなっている。ここ三十年ほどで町とつながる道が整備され定期バスが運行し、電波塔も建ったため携帯電話やスマートフォンを持つ若者が急増。中にはなんとフェイスブックを使いこなす者も。加えて、クジラ漁においてはテナと呼ばれる先祖代々の大型木造船が主役だったが、今はモーターボートも平行して使われるようになった。さらには、村に観光・貿易事業を持ち込まんとする動きも出てきている。 
 本書の肝はここにある。つまり、近代化によって多くの狩猟採集文化が喪われたように、ラマレラもまた、押し寄せるグローバリゼーションの波に呑まれつつあるのだ。
 圧倒的に利便性の良い都会に憧れる若者たち。祖先から続く儀礼がおろそかになり生じる軋轢。近代社会と伝統、どちらか一方ではなく共存していく方法を探る人々……。遠い異国、クジラの手銛り漁という希少文化の民なれども、抱えている葛藤や迷いは我々と同じ、普遍のものだ。手に汗握る大迫力の漁だけでなく、そうした端正で丁寧な心理描写が訴求力を裏打ちする。 
 考えてみれば、不変の日常などというものはない。人によって速度の差はあれども、毎日変化は起きている。過去を省み、未来と格闘し、アイデンティティを確立していく。人生の嵐に揉まれるのは先進国の専売特許ではない。そうしたごくごく当たり前の気づきに、なぜだかこの上ない興奮を覚える。比類なき感銘をもたらす大著である。

ラマレラ 最後のクジラの民

ラマレラ 最後のクジラの民

 

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