活字耽溺者の書評集

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【書評】オタク文化や日常生活にあらわれる昆虫たちを研究する『大衆文化のなかの虫たち』(保科英人、宮ノ下明大/論創社)

大衆文化のなかの虫たちー文化昆虫学入門

オタク文化や日常生活にあらわれる昆虫たちを研究する

 文化昆虫学……耳慣れない学問である。本書の序論によれば、一応昆虫学の一分野に数えられるが、正式な学問として産声を上げたのは1980年アメリカと歴史が浅く、しかも昆虫生態学分類学の研究者が片手間で取り組んでいるので当然のごとく認知度が低い。
 本書は2000年代半ばごろからこの発展途上の学問に殴り込みをかけた昆虫学者二人による手引き書だ。彼らの言う文化昆虫学の定義を引用してみる。

人間の文化活動、たとえば絵画、文学、工芸、映画、信仰、または食生活、経済活動の中で、昆虫がどのようにかかわっているか、そして人々の自然観、昆虫観を研究する学問。

 たとえを用いてもっと簡単に言うならば、昆虫が出てくる作品を収集・分析し、「このチョウは華やかさの象徴ですな」「カメムシやゴキブリは嫌悪感の演出だろうなぁ」と考察を導き出す学問である。
 昆虫がかかわる作品と聞いて、日頃から上記の文化に接している方々はいくつか瞬時に思い浮かぶことと推察するが、一つだけ注意点を申し上げると、本書では万葉集古今和歌集といった古典文学作品や江戸期の博物画のような伝統的美術作品は一切取り上げない。それは、著者らの言葉を借りれば、「こうしたお堅い文化を対象とした文化昆虫学は無論十二分に価値はあるが、民族の昆虫観の実相には届かない」からである。
 よって本書がターゲットとするのは、タイトルにあるとおり「大衆文化」――つまりゲームやアニメ、エンタメ映画といったサブカルチャーオタク文化)、昆虫をモチーフにしたグッズや食べ物などなのだ(ただ、挙げられる作品は有名どころもあれば、局所的というか、本当に大衆的と言えるか迷うほどマイナーなものもある)。
 それではいくつか文化昆虫学の見地を見てみよう。なお、本書は章ごとに著者二人の担当が分かれ、宮ノ下氏の語り口は比較的穏やかなのに対し、保科氏はけっこう辛口なのも読みどころだ。
 創作物における昆虫の役割として最も馴染み深いと思われるのが、季節の表現だ。BGMにセミを鳴かせば夏の到来、背景に赤とんぼをいっぱい飛ばせば秋である。アニメ『あの夏で待ってる』では第一話からミンミンゼミやアブラゼミが鳴いたし、アニメ『AIR』では夏や秋に鳴く7種もの昆虫が巧みに使い分けられていた。これは鳥類や哺乳類には務まらない。
 加えて、郷愁や懐旧の演出にも虫は便利である。田舎の農村が舞台のアニメ『のんのんびより』第1期13話では主人公れんげの行く先々でミンミンゼミやヒグラシ、コオロギといった鳴き声で満ちあふれ、決して変わらない故郷を表現している。また、18禁美少女ゲーム水夏』の終盤、夜の神社でのある告白場面では、スズムシの声がシリアス演出として効果的に用いられている。
 創作だけでなく食品にも昆虫は季節を告げる象徴として表れる。パンやチョコレートにミツバチ、チョウ、テントウムシなんかを可愛らしくデザインすれば春、カブトムシやホタルなら夏である。昆虫と食べ物なんてミスマッチのような気がするが、デフォルメされればオーケーというのはちょっと不思議である。近年では割とリアルなカブトムシの幼虫グミなるものが登場し、他のキモカワイイ文化の中に組み込まれているのは面白い現象だ。
 それでも、昆虫はやはり不快感や嫌悪感の対象として使われる場合が多い。映画などは特にそうだ。たとえば地球外異生物のモチーフ。『スターシップ・トゥルーパーズ』『エンダーのゲーム』は昆虫型エイリアンが人類と戦いを繰り広げる。『メン・イン・ブラック』にはゴキブリ型宇宙人が登場し、『第9地区』のエイリアンはエビと呼ばれるが外骨格は昆虫と甲殻類を組み合わせた形態である。
 その気持ちの悪さ、感情移入のしにくさ、見映えのしない造形といった理由から、『バグズ・ライフ』のように擬人化されたりデフォルメされたりしないとなかなか主役になれない昆虫だが(主役として世界的に有名なのは『モスラ』くらいか)、ガジェットとしてならぐっと出番が増えるのも特徴だ。『羊たちの沈黙』では連続殺人事件の被害者の口に入れられるメンガタスズメというガの蛹が犯人像の重要なヒントとなる。ケビン・コスナー主演『コーリング』ではトンボが死んだ妻からのメッセージの象徴として頻繁に登場し、『八日目の蝉』では映像にセミは全く出てこないが登場する女性たちの境遇がセミにたとえられている。
 ビジュアル的な昆虫の扱われ方を列挙してきたが、本書で述べられる研究成果には統計解析やGoogleの検索回数分析、アンケート調査といった数値的・客観的データ収集の手法も行われていることは強調しておきたい。
 これによって、ホタルは本来6月~7月が見頃の虫のはずが二次元世界では8月の真夏まで飛んでいたり、森の中かつ夕方しか鳴かないはずのヒグラシが『ゆるゆり♪』『私に天使が舞い降りた!』などのアニメでは町中で平気で鳴いたりしていて、それを不自然に思わない人がそれなりにいることが明るみにされている。
 生物多様性が叫ばれる昨今であるけれど、そうした議論はだいたい哺乳類や鳥類が主で、虫は文字通り蚊帳の外になりがちだ。地球上の生物数の4分の3は昆虫であるにもかかわらず、である。そりゃあ外見からして親しみにくいのはわかるが、そんな軽視をしながら多様性がどうのこうの言うのは甚だ疑問だというわけだ。文化昆虫学はそうした人間の感情を浮き彫りにする。
 サブカルだけでなく、明治期の昆虫文化、東アジアの文化蝶類学、仮面ライダーを始めとする特撮ヒーロー、絵本、果ては文化蛙学まで取り揃え、俗っぽいのかと思いきや内容は至って真面目な興味深い研究書である。

大衆文化のなかの虫たちー文化昆虫学入門

大衆文化のなかの虫たちー文化昆虫学入門