活字耽溺者の書評集

好きな本を自由気ままに書評するブログ。

『夏の沈黙』 ルネ・ナイト 古賀弥生訳 東京創元社

夏の沈黙

「否認」の普遍性を描くサスペンス

 精神分析で用いられる「防衛機制」の一つに、「否認」がある。苦痛や不快感を催す現実を知覚しながら、その現実の認識を拒否して、精神の平常を保とうとする機能である。日常生活でも割と見られる心の働きだが、時としてこの二つの自我で葛藤が起こり、極めてアンバランスになってしまう場合もある。本書は、その恐慌状態を悪意の込められた一冊の本によって連鎖して引き起こされる様をつぶさに描いたサイコサスペンスである。

 テレビのドキュメンタリー番組製作者のキャサリン・レーヴンズクロフトは、引っ越し先で購入した覚えのない『行きずりの人』と題された本を発見する。「生死にかかわらず実在の人物に類似している点があるとすれば……」という断り書きに赤い線が引かれ、20年に渡って隠し通してきたあの夏の秘密が寸分違わず描かれていて――。そう、その本は彼女のことを書いていたのだ。そしてその本に込められた悪意は、彼女の家族にも飛び火し、順風満帆だった生活を蝕み始める……。

 前半は、キャサリンの視点の他に、謎の独居老人スティーヴンの独白が入り混じり、彼女の秘密である20年前のスペインでの出来事、すなわち『行きずりの人』が書かれた背景が明るみにされていく。

 一冊の本による人生の変転がテーマの作品はカルロス・ルイス・サフォン『風の影』などがあるが、本書は「本の存在で人を殺す」ジャン=ジャック・フィシュテルの『私家版』を想起させる。実際、犯人は後半以降キャサリンとその家族をより明確な憎悪をもって崩壊させようとする。

 だが、20年もの歳月の「否認」によって混乱しているのはキャサリンだけではない。犯人を含め、ほとんどの登場人物がそれぞれ突き当たった現実を「否認」し、さらなる昏迷に向かっているのである。

 本の存在でヒステリックになり会社で揉め事を起こしてしまうキャサリン。本の内容で彼女を軽蔑し家を出ていく夫。フェイスブックで自分の虚飾をやめられず犯人の思う壺にされる彼女の息子。亡き妻の悲願を果たそうと躍起になるスティーヴン。彼らが抱えている受け入れ難く暗い現実は、程度の差はあれ誰にでも起こりえる普遍のものである。みんな、心の平常を保とうと必死なのだ。このように見てくると、「DISCLAIMER(否認、拒否)」という原題が、鋭く胸に突き刺さってくる。

 著者はイギリスBBCの美術ドキュメンタリー番組の元ディレクターで、本書が小説家デビュー作である。本書の出版権を巡ってオークションが行われ、本国での発売前にもかかわらず25ヵ国での翻訳が決まっていたという。日本でも、出版前にプルーフ版読者モニターが募集されるなど話題を呼んだ。その評判通り、サイコサスペンスとしては申し分なく、ひそやかな悪意とはこういうものだったと再認識させられる。

 また、邦題「夏の沈黙」も秀逸である。ただ、彼らが狂わされた原因と過程に思いを馳せたとき、原題に「否認」という言葉を持ってきた理由を思わずにはいられない。

 

夏の沈黙

夏の沈黙