活字耽溺者の書評集

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『トマス・クイック 北欧最悪の連続殺人犯になった男』 ハンネス・ロースタム 田中文訳 早川書房

トマス・クイック‐北欧最悪の連続殺人犯になった男

 想像を絶する冤罪を暴いたジャーナリスト

 本書に関しては「その後」から紹介したほうが良さそうだ。

 去る2014年3月19日、スウェーデン・ファールンの精神科病棟にいたある男の釈放がニュースとなった。彼の名はストゥーレ・ベルグワール、またの名をトマス・クイック。子供を含む男女30人以上の殺害を自白、8件の殺人で有罪判決を受け、「北欧最悪の連続殺人犯」、あるいは遺体の一部を食べていたことから「人食い」と呼ばれ、20年以上に渡り北欧社会を戦慄させてきた男だ。

 だが、彼は、無罪放免での釈放であった。そう、彼は「誰一人も」殺していなかったのだ……。

 本書は、平凡な男ストゥーレが連続殺人を「自白」するに至った経緯、医療スキャンダル、警察の杜撰な取り調べ、スウェーデン最大の誤審となった8件の裁判のあらましのすべてを暴いた驚くべきノンフィクションである。

 テレビ局の調査ジャーナリストである著者は、2008年に彼と面会したのち、この「クイック裁判」で扱われた事件と関係者を隈なく調べ始める。実はこの裁判は、クイックが有罪であるか否かをめぐって論争状態でもあり、著者も最初は半信半疑であった。ところが、ある事件の現場検証ビデオで、クイックが素人目でもわかるほど酷い薬物中毒に陥っていることが判明すると、凄まじい冤罪の実態が浮かび上がってくる。

 彼が最初の自白をした1992年は、『アメリカン・サイコ』や『羊たちの沈黙』など、頭脳明晰なアンチヒーローが脚光を浴びていた。セラピストの信頼を得て、病院にとって興味深い患者になれば、注目を集められること、そして薬をいくらでも処方してもらえることを悟った彼は、未解決の殺人事件の情報を新聞や本から入手し、「抑圧された記憶が甦った」などと言いながら、自白を始めたのだ。その一連のプロセスから抜け出せなくなるとは知らずに。

 一つの嘘が取り返しのつかないところまで転がっていくことは稀にあるが、この裁判においては、その嘘を信仰した警察・医療関係者がいるという現実を差し引くことはできない。彼らとの対決に向け、膨大な調書や記録にあたって疑問点をつぶし、厳然たる事実のみを見据え、冤罪のメカニズムを克明に解き明かしていくそのエネルギーに圧倒される。

 北欧特有の名前や地名が頻出し、おいそれと読み通せない大著ではある。しかし、ジャーナリストの規範の書とも、一種の重厚なサスペンスとも読める面白さを秘めていることは間違いない。

 著者は2012年、本書の原稿を完成させたのち、癌で亡くなった。56歳だった。

 

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トマス・クイック‐北欧最悪の連続殺人犯になった男

トマス・クイック‐北欧最悪の連続殺人犯になった男