活字耽溺者の書評集

好きな本を自由気ままに書評するブログ。

『幻の女』 ウイリアム・アイリッシュ 稲葉昭雄訳 ハヤカワ・ミステリ文庫

 幻の女 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 9-1))

 詩情を感じる、名訳古典サスペンス

「夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった。」

 アメリカの推理作家ウイリアムアイリッシュ(別名義コーネル・ウールリッチ)の代表作である本書は、こんな一文で幕を開ける。まだ英単語をちょっとばかし覚えたばかりだった私は、原題の『PHANTOM LADY』に惹かれ、さらにこの冒頭の一文にしびれて、めくるめく翻訳ミステリの世界に落ちていった。

 舞台はニューヨーク。自宅で妻と喧嘩別れし、街をさまよっていたブローカーのスコット・ヘンダースンは、とあるバーでオレンジ色のカボチャの帽子を被った女と出会う。彼は彼女と「一夜かぎりの友達であること」を前提に、レストランで食事をし、ショーを見物し、酒を飲んで別れた。しかし帰宅してみると、そこには数名の警官と、スコットのネクタイで絞殺された妻の姿が! 

 嫌疑をかけられ死罪となった彼の無実を証明するためには、一緒にいた女の証言が必要である。刻々と迫る死刑執行日、消えてしまった「幻の女」を探すため、彼の親友と愛人が内密に捜査に協力し、証言を求めて奔走する――。麗しき友情譚……で終わるはずもなく、目撃者たちの口裏合わせや謎の人物の暗躍で、物語はよりミステリアスな雰囲気を帯びていく。

 本書が発表されたのは1942年、日本で初めて掲載されたのは旧『宝石』誌上で、1950年であった。江戸川乱歩は、それより前の1946年に、原著を読破し、表紙裏に「新らしき探偵小説現われたり。世界十傑に値す。ただちに訳すべし。不可解性、サスペンス、スリル、意外性、申分なし」と書き込むほどの激賞ぶりであったそうだ。現在でもその人気は衰えず、文藝春秋『東西ミステリーベスト100』の海外編では、1985年版で2位、2012年版で4位に輝いているほどだ。

 そのため、プロットはあまりにも有名で、あちこちで応用されており、ミステリを読み慣れている人ならば、初読でも既視感を覚えるかもしれない。が、そこは“サスペンスの詩人”と呼ばれるアイリッシュである。冒頭の一文からも何となく読み取れるように、サスペンスの合間に1940年代のニューヨークの空気を詩情たっぷりに感じられること請け合いであり、本書を不朽の名作に押し上げている理由の一つと言える。

 江戸川乱歩の熱狂ぶりもさることながら、翻訳者の情熱も素晴らしい。本書は二回に渡って翻訳されており、現在ハヤカワ・ミステリ文庫から出ているのは故稲葉明雄訳だが、前述の『宝石』では故黒沼健訳であった。

 実はその旧訳では、引用した本書の冒頭の一文は、「夜はまだ宵の口だった。そして彼も人生の序の口といつたところだった。甘美な夜だったが、彼は苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。」となっていた。原著のこの冒頭部分は、1928年のミュージカル『ニュー・ムーン』で歌われたスタンダード・ナンバーの『恋人よ、われに帰れ(Lover, Come Back to Me)』の歌詞の一部をもじったものであるが、稲葉氏のあとがきによると、この旧訳は「平仄が合わなくて意に満たず」、新訳の際に手直しをしたとのことである。

 さらには、稲葉氏も最初の訳では「夜は若く、彼も若かった。が、夜の空気は……」と「。」が入っており、1994年の版で現在の形になったようだ。違いは一目瞭然である。

 古典が読み継がれるだけの理由を教えてくれる、そんな名文・名訳サスペンスだ。

 

幻の女 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 9-1))

幻の女 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 9-1))