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活字耽溺者の書評集

翻訳ミステリ、サスペンス、ノンフィクション等の書評。産経新聞書評欄に不定期で寄稿。

『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』 栗原康著 岩波書店

ノンフィクション・人文書・研究書 2016年刊

村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝

※本稿は「週刊読書人」2016年6月17日号に掲載された書評の転載です。

著者から野枝への恋文

 本書は、大正時代のアナキスト大杉栄のパートナーで、女性解放運動の元祖といわれる伊藤野枝の評伝だ。ただし、物騒なタイトルから察せられるように、常識や道徳観、そして「評伝」という言葉の持つ堅苦しいイメージをも一蹴する、とんでもなくぶっ飛んだ本であることをまず念頭に置いておかれたい。

 伊藤野枝の年譜を簡単に書いておこう。1895年、福岡県の極貧家庭に生まれた彼女は、14歳で上京し、上野高等女学校を卒業したのち、雑誌『青鞜』編集部で働き始める。平塚らいてうの後任として編集長となると、「無規則、無方針、無主張無主義」をモットーに、貞操や中絶、廃娼問題に深く踏み込んだ言論を発表、数々の論争を巻き起こす。ダダイスト辻潤と別れ、大杉栄とその妻、愛人との四角関係を経て、大杉との間に五人の子供を産み、辻潤との子供も合わせて七人の子を育てる。『青鞜』休刊後も『文明批評』や『労働運動』といった雑誌を創刊し執筆活動を続けるが、関東大震災の混乱のさなか、甘粕正彦率いる憲兵隊に拘束され、大杉と甥っ子ともども虐殺される。享年28。

 どこをどう切り取っても壮絶な人物である。が、これらの伝記的事実は、今日新しく掘り起こされたものではない。本書がユニークなのは、語り口だ。冒頭、野枝の故郷である福岡県今宿で、今も野枝が妖怪のように扱われているのを知り、著者はこう綴る。

「野枝のあたまにあるのは、率直にこれだけである。もっとしりたい、もっとかきたい、もっとセックスがしたい。ほんとうに、これだけで突っ走っている。これじゃちょっとものたりない、キュウクツだとおもったら、いつでもすべてふり捨てて、あたらしい生きかたをつかみとる。あたかも、それがあたりまえのことであるかのように。」

 野枝の信条と凄まじい行動力に呼応したかのような、熱っぽくかつ飄々とした文章である。難解さは微塵もない。特筆すべきは、読み進めていくうちに、彼女の激烈な生涯を語るには、この文体でなくては不可能だったと感じざるを得なくなるところだ。野枝が暴行を受ければ「チキショウ!」と怒り、青鞜社の庭に赤ん坊のウンコをばら撒けば「野枝さん……」と呆れ、内務大臣に送った「あなたは一国の為政者でも私よりは弱い」という手紙に「やばい、かっこよすぎる」と惚れ惚れとする……。

 評伝の体裁をとってはいるが、内実は著者の個人的感情をまじえた野枝への恋文である。中には首肯しかねるものもあるが、たしかに、エピソードの数々から見えてくる彼女の思想は魅力的で勇ましい。欲望全開。わがまま上等。習俗打破。やりたくないことはやらない。貧乏でも、なんとかなる。結婚制度も資本主義もクソ食らえ。奴隷根性を引っこ抜け。愛するふたりは、どんなに好き合い、セックスしても、決してひとつにはなれない。なぜなら、ふたりは違う個性を持った別人だから。真に求めるは、中心のない機械――主従も契約もない異なる歯車同士――となって、強い友情をはぐくむこと。

 一世紀近く経過した今でも、野枝が生涯を賭して抗った社会通念は依然として残っている。誰もかれも、約束事や役割論で雁字搦めである。しかし、だからといって彼女のように生きるのは、困難を極める。それでも、本書は、読む者の胸の奥に、現代の逼塞感を打ち崩すだけの、たしかな火を灯してくれる。(1363字)

 

村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝

村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝