活字耽溺者の書評集

好きな本を自由気ままに書評するブログ。

【書評】『「日本の伝統」という幻想』 藤井青銅/柏書房

※この書評はHONZからの転載です。

時代の変わり目を前にして

 平成の終わりが近づいている。といっても、元号が変わるだけで、生活にドラスティックな変化が訪れるわけではない。が、それでも、平成の世、もっと言えば日本がたどってきた道のりに思いを馳せてしまう人は多いのではないか。受け継がれてきた行事や慣習も一つの節目だ。どんな時代が来ようと大切に守っていかねばならない、でも中にはなんかモヤモヤするものもある――もしかしたら、今こそがそうした「日本の伝統」をちょっと離れて考えてみるのに最適な時かもしれない。

 本書『「日本の伝統」という幻想』は、昨年11月末に上梓された『「日本の伝統」の正体』に続く第二弾である。『「日本の伝統」の正体』は、日本にある伝統と呼ばれるものの多くが実は明治時代以降の発明であることを調べ分類した一冊で、発売後反響を呼んだ(詳しくは筆者のレビュー著者インタビューをお読みいただきたい)。伝統という言葉の持つ魔力を読み解かんとしたこの前作を踏まえ、本書は今年2018年に話題となった事例を盛り込みさらに掘り下げて分析した内容となっている。

 まず、人は伝統に弱いという事実を踏まえつつ、その大前提として、著者はこう述べる。

伝統は、人が生きやすくするために作った決めごとの集積です。もともと「こうやったほうがうまくいく」「こうやったほうが楽しい」で始まったのですから、そもそも受け入れる側に処世術や生活の知恵的なメリットがある。が、ここで言うメリットはそういうものではありません。もっと生々しく露骨なものです。

 そこで考えられる発信者側のメリットは二種類ある。一つは「伝統ビジネス」。立派な志や意気込みをもって始まった行事でも、儲からなければ維持していくのは難しい。初詣、恵方巻、成人式などが成功例で、日本古来からではないがバレンタインデーやクリスマスももはや年中行事と言えるし、昨今の大騒ぎぶりからしてハロウィンもそうなりつつある。日本人は伝統好きで保守的であると同時に新しいもの好きでミーハーの傾向があるのだ。

 これはビジネスチャンスの宝庫でもある。由緒ある背景があれば新しいしきたりでも迫力が増し、毎年のように稼ぎ時が回ってくるのだから。冬至にゆずを食べる、節分に豆を撒くといった具合に二十四節気や雑節を使ったり、讃岐うどん飛騨牛みたく旧国名をプラスしたり、結納にスルメ(寿留女)を用いるように当て字を活用したり……。

 時代のチョイスも重要だ。京都を連想しやすい平安時代、『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』といった武士の矜持漂う江戸時代、司馬遼太郎坂の上の雲』に代表される国威発揚の明治後期、そして映画『ALWAYS 三丁目の夕日』のような昭和の高度経済成長期は日本人に好まれ、受け入れられやすい。このあたりは世の趨勢によって変化するので、流行り廃れの見極めが肝心である。

 さて、もう一つ、伝統の発信者側のメリットとして、直接金銭が絡まず、その権威性をたのみにするものがある。それが「伝統マウンティング」だ。「長く続いている文化やしきたりはありがたみがあり素晴らしい(から変えるな、従え、守れ)」といったように、暗黙のニュアンスが伝統という言葉には含まれている。歴史があり、先人たちが大勢関わってきたとなると、受け手は拒みがたい。これを利用し、序列を明確化して強要する人々がいる。

 本書から例を一つ挙げてみよう。今年の4月4日、京都での大相撲春巡業で、舞鶴市長が土俵上での挨拶の途中で倒れる事件があった。どよめきの中、観客として来ていた女性看護師が急いで駆け上がり、救命措置を行った。ところがそのとき、場内アナウンスで、「女性は土俵から降りてください」との声が繰り返された。市長はその後救急隊によって病院に搬送され一命を取り留めたが、この非常識アナウンスは大批判を浴びた。土俵上は女人禁制などという伝統ルールが人命よりも優先されたのだから当然である。

 相撲の女人禁制の起源は江戸時代だ。この時代、現在の大相撲の原型となる男性同士の勧進相撲が人気を博していたが、女性の出入りは禁じられていた。というのも、相撲がとり行われる場所が女人禁制の神社仏閣であったことと、試合内容で観客がヒートアップし喧嘩になることが多く危険であったためだ。

 文明開化が始まる明治5年の太政官布告にて、「神社仏閣女人結界の場所を廃し、登山参詣随意とする」との文面が載り、女性客も観戦が可能となる。さらに明治17年に天覧相撲が行われ、明治45年には両国に常設館である国技館が誕生し、国民的競技となっていく。だが、その過程で、神事としての相撲が厳格化し、神聖な場である土俵に「ケガレ」である女性を上げてはならないとされてしまったのだ。そもそも興行としての女相撲も江戸時代からあり、昭和30年代ごろまで細々とだが続いていたにもかかわらず、である。女人禁制はこれまでも幾度となく批判されてきたのに変えられないところを見るに、国技、神事、男社会といった圧力がいかに容易に否定できないものかを如実に示している。

 伝統は過去に遡っていく。古色蒼然としていればしているほど良い。伝統があってビジネスやマウンティングが始まるのではなく、ビジネスやマウンティングのために伝統が利用されている、なんて事例もあるだろう。

 しかし、前作もそうだが、そうした伝統をあげつらって厳しく糾弾するのが本書の趣旨ではない。ちょっと距離を置いて、少しの時間でもいいから調べたり考えたりしてみようとやんわり提案しているだけだ。伝統ビジネスの項では、「伝統ビジネスで一攫千金!」と半分冗談、半分本気で書かれていたりするくらいである。この軽妙で優しげな著者のスタンスに、玉石混淆な情報の海を泳ぐための能力を身に着ける術を見る思いがする。時代の変わり目を前に、歴史を顧みる手助けとなる一冊だ。(2366字)

【800字書評】汚い言葉は消え去るべきか――『悪態の科学 あなたはなぜ口にしてしまうのか』エマ・バーン/黒木章人訳/原書房

汚い言葉は消え去るべきか

 世の中には、公の場で口にすべきでない言葉がある。日本語で言うなら「クソ」「ちくしょう」「クズ」「アホ」、英語で言うなら「fuck」「shit」「cunt」「bugger」「bitch」などがそうだ。こうした言葉を学校や家庭で教わってきた人はまずいないだろう。むしろ「そんな言葉使っちゃいけません!」と厳しく禁じられていたはずだ。しかし我々は、成長していくうちに、これらの言葉に込められた意味も、使う場面も、暗黙のうちに理解していく。

 本書は、そうした汚い言葉の持つ暗い魅力を解き明かさんとする研究や実験の数々を紹介する一冊である。著者はイギリスのロボット工学者かつジャーナリストで、「みなさんが引くぐらいたくさん」口にするほど汚い言葉が大好きなのだそうだ。

 悪態・罵倒語にあたるのは、その社会でタブーとされる事柄だ。世界共通なのは排泄、セックスにまつわるもので、人種、ジェンダー、宗教などは国や地域で差がある。また、時代によっても変化する(たとえば、中世ヨーロッパでは性器やその機能を話すのは不道徳ではなかったが、ルネサンス期に入るとみだらな言葉とされた)。

 挙げられている調査をいくつか紹介しよう。被験者に氷水のバケツに手を突っ込んでもらい、耐え切れなくなるまでの時間を計る実験では、罵倒語を言いながらの方が、言わない場合の1.5倍長くなった。ある企業で、好成績を上げ続けているチームに一週間ボイスレコーダーを着けたところ、仲間内で通じるジョークのニュアンスが込められた罵倒語が飛び交っていた。人間とチンパンジーの類似点を探る実験では、チンパンジーが手話を通じて汚い言葉を学習し人間にぶつけてきた……。

 罵倒語は、辞書から消し去ったり使用を禁じたりしても無意味だと著者は述べる。別の言葉が取って代わるだけだからだ。とどのつまり、人間と汚い言葉は切っても切れない関係なのである。疑問符がつく話もあるが、世界中のどの言語にも存在しているにもかかわらずこの分野の研究は盛んでないため、仕方がないとも言える。興味深い一冊だ。(834字)

 

【800字書評】楽しい語りで疾駆する――『人魚と十六夜の魔法 ぬばたまおろち、しらたまおろち』 白鷺あおい/創元推理文庫

楽しい語りで疾駆する

 人からたまに、どんな本が好きですか、と聞かれることがある。一口に本といっても千差万別なので、こうして書評を書いたり寄稿したりしておきながら返答に窮してばかりだったが、今なら基準の一つははっきりと言える。書き手が楽しんで書いている本です、と。この本がまさしくそうだ。 
 本書は昨年の第2回創元ファンタジイ新人賞優秀賞受賞作『ぬばたまおろち、しらたまおろち』のシリーズ第2作である。著者は岡山県生まれの作家で、歌人でもある。前作の詳細はリンク先の書評を読んでいただくとして、主人公は引き続き深瀬綾乃だが、今作は新たな人間の女の子・影山桜子の視点も加わり、群像劇の様相を呈してきている。

 話を見ていこう。ここは茨城県にある、人間と妖怪(「妖魅」と呼ばれる)が一緒になって薬草学や箒の乗り方などを学ぶ全寮制魔女学校ディアーヌ学院。てんやわんやあったが無事高等部に進学した綾乃は、ハーフ雪女・雪之丞や、小豆洗い、白狐、塗壁といった同級生たち(みな人間の姿に変身できる)と忙しない新学期を過ごしていた。
 そんな折、綾乃たちの学年にロシアからの転校生・水妖ヴォダー(ボダ)君がやってくる。片言だが礼儀正しく、水を自在に操る能力を持ち、すぐに学院中の話題をかっさらっていくボダ君。しかし時を同じくして、学院では、不審者が目撃されたり、生徒のお八つが盗まれたり、幽霊が憑いている着物が桜子のもとに送られてきたりと、奇妙な出来事が相次いで発生する……。
 舞台もストーリーも二転三転した前作と違い、今作はほぼ学院とその近隣で、後半それぞれの事件が収斂していくまでかなりスローペースな学園ライフとなっている。和洋ごった煮、ラブコメあり民俗学ありと変わらず賑々しいものの、あれこれ詰め込みすぎて少々締まりがなくなっているのは否めない。が、前作から貫かれる、駆け抜けるような楽しい筆遣いと適度なゆるさにはどうしてか惹きつけられてしまう。この比類なき魅力そのままに、さらに深みある物語を読みたいと強く望む。(833字)