活字耽溺者の書評集

好きな本を自由気ままに書評するブログ。

【800字書評】『声』 アーナルデュル・インドリダソン/柳沢由美子訳/創元推理文庫 

 癒えない傷との対峙

「なんという人生だ」

 殺された男の師が、悲嘆のあまり放った言葉だ。この言葉は、姿形を変え、幾度となく物語に表出しては、事件を捜査するエーレンデュルの内で重く響き渡る。彼もまた、自分の人生が窮地にあることを理解しているからだ。執拗に書き込まれたその傷との対峙が、このシリーズの面白さと哀切さを生み出す源泉だ。

 本書は、アイスランドの推理作家アーナルデュル・インドリダソンによる、捜査官エーレンデュルシリーズ第三作である。

 事件は、クリスマス間近、首都でも指折りのホテルで元ドアマンのグドロイグルが殺されたことに端を発する。彼は華やぐホテルとは無縁の地下室でサンタクロースの扮装のまま何度も切り刻まれていた。露出した下半身から垂れ下がるコンドーム、趣味を示すものが皆無の牢獄のような部屋……あまりにも惨めな死だった。

 エーレンデュルは同僚とともに聞き込みを始めるが、グドロイグルはホテルに住み込みで20年も働いてきたにもかかわらず、人物像を知る者はほとんどいなかった。しかし、彼を訪ねて宿泊していた古レコード蒐集家の話から、グドロイグルが少年時代、特別な声を持つボーイソプラノとして名を馳せていたことを知る……。

 グドロイグルの生い立ちが明らかになっていくと同時に、同僚エリンボルクが担当する児童虐待事件の裁判と、こじれにこじれたエーレンデュル父娘の物語が展開される。この緻密な重層構造は、シリーズに通底する、家族関係や人生への哲学的問いへの照射を意味する。本作では、エーレンデュルが少年時代に受けたトラウマも語られ、彼の内奥で渦巻く精神不安がより生々しくなっている。

 とはいえ、過去作と比べると、どぎつさは和らいでいる。それは、エーレンデュルが時折見せるウィットや、傷心の彼を癒すような女性の登場に見ることができる。彼の人生は、これからどうなっていくのか。治らないような傷を見つめ続けるのは誰でも辛い。だからこそ、彼の葛藤が深く沁みる。(809字)