活字耽溺者の書評集

好きな本を自由気ままに書評するブログ。

【800字書評】『湖の男』 アーナルデュル・インドリダソン/柳沢由実子訳/東京創元社

過ぎ去りし時代の悲劇を掘り起こす

 アイスランド、クレイヴァルヴァトゥン湖。地震の影響で干上がっていたこの湖から、白骨化した遺体が発見される。レイキャヴィク警察は、こうした骸骨の捜査にうってつけの人物として、エーレンデュル捜査官を抜擢する。彼は弟を雪山で喪ったという幼いときの苦い記憶からか、失踪や行方不明事件に対し強い執念を持っていた……。

 このようにして開幕する本書は、アイスランド人作家アーナルデュル・インドリダソンによるエーレンデュルシリーズの邦訳第4作である。翻訳ミステリ、とりわけ北欧ミステリファンにはもはやこんな説明は不要だろう。本シリーズが得意とするのは、埋もれている過去を掘り下げていくこと――本作で取り上げられるのは、イデオロギーが熱気を帯びていた時代の暗部だ。

 捜査により、掘り起こされた白骨の頭部には陥没があり、ロシア製の盗聴器がくくりつけられていたことが判明。また、この骨は男性で、骨に含まれる化学物質から測定したところ、1970年代以前に沈んだものだと推測された。死者は一般人か、それともスパイか。これらの情報から、行方不明者を絞り込んだエーレンデュルたちは、彼らの近親者や、各国大使館への聞き込みを開始する。

 ひたむきで地道な捜査活動と並行して、ある男の輝かしくも悲しい回想が語られる。男はかつて、社会主義に傾倒していた。ソ連への対抗として、アメリカ軍がアイスランドに駐留していた頃のことだ。1950年代、彼は東ドイツライプツィヒ大学に留学し、仲間たちと思想を語り合い、恋人と愛を深め、夢の実現に突き進んでいた。国家による監視と排除の魔の手が迫っているとも知らず。

 白骨の正体は誰か。加えて、権力に人生を狂わされた男はどんな破局を迎えたのか。とうの昔に終わった事件かもしれない。だが当事者にとっては決して癒えぬ生傷だ。二つの物語の交点で、過ぎ去りし時の惨禍が重く響く。過去作と比べると地味だが、いつの時代、そしてどこの国でも読まれるべき一冊であるのは請け合いだ。(819字)