活字耽溺者の書評集

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『静かなる炎』 フィリップ・カー 柳沢伸洋訳 PHP文芸文庫

静かなる炎 (PHP文芸文庫)

くすぶり続ける鉤十字

 報道でたびたび取り上げられているとおり、今年2015年は終戦70年の節目の年であり、去る5月8日はドイツの終戦記念日であった。ドイツではこの日をナチス体制からの「解放の日」と呼ぶこともあり、鉤十字は今なおドイツ社会に影を落としている。

 さて本書は、世界がまだその鉤十字のショックから抜け出せていない1950年のブエノス・アイレスを舞台とした、ベルンハルト・グンター・シリーズの第五作である。

 前作『変わらざるもの』の終章を受けて、元ナチスの戦犯とともに祖国ドイツを離れアルゼンチンに移ったグンターは、ファシズムに心酔するファン・ペロン大統領の呼び出しを受け、そこで、1930年代にベルリン捜査官だったグンターを知っていたモンタルバン大佐から、失踪した銀行の支店長の娘の捜索を依頼される。

 大佐は、それより前に発見された少女の惨殺死体と、1932年にグンターが指揮を執った少女殺人事件との酷似を挙げる。グンターはアルゼンチンに住む元ナチスの中に快楽殺人犯がいるものとみて、古い記憶を呼び覚ましつつ、地道な捜査を開始する。しかし、彼を待っていたのは、祖国を離れても付きまとう鉤十字の亡霊であった……。

 前作と同じく、本作も非常に重苦しい「ナチもの」の歴史ハードボイルドといった様相を呈している。物語は、1932年のベルリンでの事件と1950年のブエノス・アイレスでの事件が交互に進んでいくが、前者ではナチズムが国民に浸透していく様が、後者ではくすぶり続けるナチズムが丹念に描かれる。そこに、ナチスの犯罪を風化させてはならないという著者の冷徹な眼差しを見出さずにはいられない。

 この重さを紛らわすのは、やはり、ナチズムをとことん嫌悪するグンターの魅力的な減らず口だ。美女によくモテるのも相変わらずで、本書では、壮年に差し掛かって、波乱に富んだ人生や運命をシニカルに言ってみせる場面が多い(過去作でどのような目に遭ってきたか知っている読者は思わずにやりとさせられる)。

 しかし、その皮肉を体現するかのように、本書の終章で、彼に再び過酷な試練が訪れる。それは、ホロコーストに対して何もしなかった自身の罪を問われる、痛ましく切ない宿命であり、十字架だ。文章も翻訳も極めて洗練されており、凄まじい余韻を読者に刻み付ける名場面である。

 彼が、いやドイツが十字架を降ろせる日は来ないのだろう。それでも、すでにイギリスで発表されているグンター・シリーズ続刊の邦訳を待ち焦がれてならないのである……。

 

静かなる炎 (PHP文芸文庫)

静かなる炎 (PHP文芸文庫)