活字耽溺者の書評集

好きな本を自由気ままに書評するブログ。

『歴史の証人 ホテル・リッツ』 ティラー・J・マッツェオ/羽田詩津子訳/東京創元社

※この記事はHONZからの転載です。

権力の交点となったホテルでの魅惑的な群像劇

 パリの中心部、ヴァンドーム広場に面して、そのホテルは存在する。

 ホテル・リッツ(Hôtel Ritz)。フランスの実業家セザール・リッツと名料理人オーギュスト・エスコフィエの協力のもと、1898年に開業したこのホテルは、その贅沢さ、壮麗さから、パリの富裕層だけでなく、世界各国の名士を顧客に迎え入れ、大きく栄えた。

 だが、第二次世界大戦さなかの1940年6月14日、パリはドイツに占領され、豪奢なホテル・リッツはナチスの拠点とされてしまう。ところが、ホテルの半分(カンボン通り側、バー、レストラン)は一般人にも開放されていたため、枢軸国の将校から裕福なフランス市民、アメリカ人、そして密命を帯びたスパイまでが自由に出入りしていた。そして、表向きは中立を装いながら、みな一様に社交の場に立っていたのである。

 本書は、善悪のみならず、思惑も欲望も恐怖も策謀もすべてごった煮となったこの空間の奇妙な人間模様を、グランドホテル形式で描き出したノンフィクションである。

 ページを開いてまず驚くのは、人物名鑑かと思うような登場人物紹介だ。作家でいえば、プルーストコクトーサルトルボーヴォワールF・スコット・フィッツジェラルドもホテルの住人と言って等しく、自作にホテル・リッツを登場させるほどの愛好家だった。

 映画俳優も多い。有名どころでは、アルレッティ、マレーネ・ディートリヒサラ・ベルナールなど。これは、ホテル・リッツが1910年代から20年代にかけて映画産業の震源地となっていたためで、滞在客の多くは映画業界と何かしらの関わりを持っていた。

 軍人もリッツを愛していた。占領軍では、国家元帥ヘルマン・ゲーリングがその筆頭だ。パリに入ってさっそくインペリアル・スイートを強奪したゲーリングは、香水や宝石、美術品や絵画の略奪に勤しんだ。モルヒネ中毒でもあったゲーリングの奇行は、ホテル中の笑いものであった。住民の中には、そうした占領の優越に浸るドイツ軍人と懇意になる者もおり、先に挙げたフランスの映画スター・アルレッティは、ドイツ空軍将校と愛人関係であった。

 無論、占領を快く思わない人々もいる。レジスタンスだ。ホテルのバーはおろか、ヴァンドーム広場沿いのオフィスのほとんどで熱心な諜報活動が行われていた。1944年6月、連合国がノルマンディー上陸作戦を成功させ、ドイツの旗色が悪くなると、ホテル内の軍幹部にも反ナチス色が強まり、翌7月20日には、ヒトラー暗殺計画「ヴァルキューレ作戦」が実行される。しかしこれは失敗に終わり、激怒したヒトラーの指示で、ゲシュタポによる血の粛清が行われ、ホテル・リッツでもスパイやナチス高官が霧のように消えていった。

 この事件は、ナチスの劣勢を決定づけるものとなった。8月15日、進軍する連合軍に呼応するようにして、パリ各所でゲリラ的ストライキが勃発。世界有数の都市を破壊することは、敵への強力な精神的攻撃になる――そう考えたヒトラーは、リッツに宿泊していたコルティッツ司令官に、パリの爆破を命令する。だが、コルティッツは歴史に汚名を残すことを拒み、連合軍へ速やかにパリに入るようにメッセージを送って、破壊までの時間稼ぎを図った。「パリは燃えているか?」とわめく指導者からの圧力を受けながら。

 さて、ここで一人、凄まじくマッチョな男を紹介せねばならない。本書の主人公は、これら激動の時代をつぶさに見てきたホテル・リッツなのだが、このホテルの歴史を語るときに、どうしても外せない人物がいる。アーネスト・ヘミングウェイである。

 従軍ジャーナリストでもあったこのアメリカ人作家は、戦争を比類なき人間ドラマとみなし、ホテル・リッツを最高の活動の場として信奉していた。リッツにある「バー・ヘミングウェイ」は彼に奉げられたものだ。リッツ経営者一家と飲み友達で、女性関係も多く、「パパ」と呼ばれることをたいそう好んだこの作家は、パリ解放のとき、リッツに一番乗りを果たすのは自分だと固く決めていた。

 旧友で、同じくリッツを愛するカメラマンのロバート・キャパと、ノルマンディー上陸作戦に従軍。その後二人は別々に行動しつつ、競い合ってパリへの道を進む。大酒飲みのヘミングウェイは、連合軍とともに移動しながら近隣のカフェやホテルで大量のワインを飲んだ。というより、酒を飲むために頻繁に停止していた。時折砲撃や戦闘に巻き込まれていたにもかかわらず。

 8月25日、ナチスのパリ防衛軍が降伏。ホテル・リッツを最初に占拠したのは、イギリス軍だった。だが、一時間遅れて王様のようにやってきたヘミングウェイは、イギリス人たちを容赦なく追い払い、真っ先にセラーを解放し、ヴィンテージワインをがぶ飲みしたという。その夜、彼はサルトルボーヴォワールを連れて、歓喜の祝宴を開いた。

 しかし、戦争はまだ終わったわけではなかった。数十キロ先ではまだ戦闘が続いていたし、フランス人の目には、連合軍――とりわけアメリカ人が次なる占領者に見えた。ホテル・リッツは新たな時代の局面を迎えたのである。

 たとえば、ドイツ人と繋がりの深かったアルレッティやファッションデザイナーのココ・シャネルは連合国から尋問を受けた。ドイツの核計画の進捗具合を探るため、リッツの一室で諜報員チームが結成された。ヘミングウェイに後れを取ったキャパは、ホテルを訪れたイングリッド・バーグマンと恋に落ち、ひと夏をともに過ごした……。

 ホテル・リッツ。一癖も二癖もある人々と、むせ返るほど濃密な時代に彩られた空間。全18幕からなる本書は、どこをどのように切り取っても息を呑むような物語で埋め尽くされている。特筆すべきはやはり、それらの逸話が驚くほど躍動的であることだ。綿密な取材に裏打ちされているため、読後はそれこそ豪勢なサービスを受けたあとのような贅沢感と陶酔感にひたれること請け合いである。ぜひ味わってみてほしい。(2392字)