活字耽溺者の書評集

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【週刊800字書評】『鏡の迷宮』 E・O・キロヴィッツ/越前敏弥訳/集英社文庫

幻覚を終わらせないリアリティ

 家族や旧友と、昔の思い出を語らっているとき、認識の違いに直面したことはないだろうか。同じものを見ていた、あるいは同じ体験をしたはずなのに、話が微妙に食い違っている。議論を交わしてもお互い譲らず、あやふやで終わってしまった、なんてこともあるかもしれない。本書は、そんな記憶の迷宮に引きずり込むミステリである。

 物語は、文芸エージェントのピーターのもとに、謎めいた原稿が届く場面から始まる。差出人は、リチャード・フリンという40代の英語教師の男。同封されていた手紙によると、1987年にプリンストン大学名誉教授が殺害された未解決事件について自分は真実を知っている、それを手記にした、とのこと。

 というわけで作中作として、リチャードの手記が挿入される。彼は当時、その名誉教授の下で手伝いをしており、また二人の間を繋いだ女子学生と恋仲にもなっていた。微に入り細を穿つ描写で、犯罪実話として興味深かかったのだが、原稿は未完で、事件当夜の記述が抜け落ちていた。ピーターは急いで彼とコンタクトを取ろうとするが、リチャードは入院中で話ができず、不幸にも数日後に死去してしまう。

 困ったピーターは、友人のフリー記者に、残りの原稿の在り処と、1987年の事件の洗い出しを依頼する。ところが、リチャードの原稿の内容と証言者たちの言葉との齟齬が徐々に明らかになり、誰が真実を語っているのかわからず、混迷していく。

 記憶の不正確性や、五感の曖昧模糊とした部分を突くような逸話も随所に挟まれ、登場人物だけでなく読者も不安に絡め取られる。本作はミステリとして一つの結末を用意してあるものの、晴れやかなカタルシスはなく、これから先も幻覚が続くようなリアリティがある。この文学性が、なんとも楽しい。

 著者はルーマニア出身のジャーナリストで、ベテラン作家でもある。本書は初めて英語で執筆した小説だったが、草稿は何度もエージェントに断られ、そのたびに推敲を重ねたという。この裏話も、本書のストーリーと地続きになっているような気がしてならない。(840字)