活字耽溺者の書評集

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【週刊800字書評】『影武者徳川家康』 隆慶一郎/新潮文庫

※この記事はシミルボンからの転載です。

身を焦がさんばかりの渇望

 徳川家康関ヶ原の闘いにて暗殺される!

 この現実に最も震撼したのは、そばにいた家康の影武者・世良田二郎三郎。彼は、家康と年齢が近いだけでなく、背格好から体格、容貌に至るまで、家康と酷似していた。しかも、十年の長きに及ぶ影武者としての修練の成果で、癖や思考の方法すら身に着けた男である。

 今は天下分け目の合戦の真っ只中。総大将の死が知らされれば、徳川軍の士気にかかわる。それどころか、影武者の任を全うできなかった自分の首が危うい……窮地に立たされた二郎三郎は、一世一代の賭けに出る。家康になりきって生きるのだ――。

 このようにして幕を開ける本書は、時代作家・隆慶一郎の畢生の一大巨篇である。

 さて、咄嗟の判断が吉と出て、見事な勝利を収めた徳川陣営。家康の顔をよく知った配下五人に暗殺の凶報が伝えられ、急遽善後策が練られる。家康の死を隠すのか。公開するのか。下された結論は、二郎三郎には引き続き家康を演じ続けてもらうこと。それが、徳川家にとって最良の手段である。

 こうして二郎三郎の苦悩の日々が始まるわけだが、いつバレるかひやひやしながら正体を知る者みんなで頑張って盛り立てていく……という話ではもちろん、ない。家康となった二郎三郎は、傀儡とはならずに、身を焦がさんばかりの自由への渇望を胸に秘めつつ、家康の考え方を徐々に実行に移していく。そして戦乱のない世を創成すべく、豊臣と徳川の和平を目指し、関ヶ原から落ち延びた島左近と、家康を暗殺した忍者・六郎までも味方につけ、権力移譲を迫る嫡男・秀忠と壮絶な暗闘を繰り広げるのである。

 本書は何も、荒唐無稽な歴史ファンタジーではない。「伝奇的手法及び文章を使いながら、歴史的事実を再構成したい」という著者の強い意志のもと、徳川家康関ヶ原合戦前後で性格が奇妙な変貌を遂げていることに着目し、史実の間を縫うようにして生まれた作品だ。ちょっとやそっとの労力で描けるものではない。並々ならぬ執念がみなぎる一作だ。(817字)