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活字耽溺者の書評集

翻訳ミステリ、サスペンス、ノンフィクション等の書評。産経新聞書評欄に不定期で寄稿。

【週刊800字書評】『実況・料理生物学』 小倉明彦/文春文庫

料理しながらゆるく楽しく学ぶ! 

 金曜日16時半すぎ、大阪大学豊中キャンパス、理学部学生実習室。15名ほどの学生が講義を受けている。科目名は「料理生物学入門」。今日は小麦粉を捏ねる作業が中心だ。

 P(教授) 生地を寝かせている間に、今の作業が、小麦粉の分子に何をしていることになるのか、説明をします。さっき、小麦粉の中には、デンプンのほかにタンパク質が10%も入っている、って話しましたね。(中略)いま何が起きてるか。混ぜ込んだ酸素がタンパク質分子と反応しているんです。ほら、酸素がプチプチ反応してるのが見えるでしょ。

 S(学生) 見えるわけないっしょ。

 P 冗談です。……

 というやり取りをしながら、大阪大学神経生物学教授である著者と阪大の学生が一緒になって料理をする様子を収めた講義録が本書『実況・料理生物学』だ。上の引用からもわかるとおり、かなりユルい雰囲気の授業で、開講から終講まで欠席者ゼロの名物講義だったそうである。

 なぜこんな授業を思い立ったのか。あとがきで著者はこう語る。阪大の学生の知識は決して少なくない。しかしそれはあくまで教科書の中の世界にすぎず、自己に身体化できていない。そこで考え付いたのが、実物にじかに触れられ、感じることのできる再学習、すなわち料理だった――と。

 そんなわけで、勉学意欲を引き出すための苦心惨憺の結晶とも言える本書だが、試行錯誤の集積から成る料理文化の特質上、メインの生物学の話からよく脱線するのも特徴だ。「焼豚には前と後ろがある」「ビタミンB1不足と脚気の歴史」「世界三大クサ食品2位シュールストレミングを食す」などなど、雑学あり薀蓄ありギャグありで、吸引力がすさまじい。教授は終始優しげだし、作った料理も美味しく食べられるのだから、そりゃ人気が出るわけである。

 生物学だけでなく、解剖学、生化学、生理学まで横断したこの講義は、2001年から5年間に渡って行われたが、キャンパスと研究室の移転に伴い終了した。体系だった学び方ではないけれど、基本を押さえつつ学生を惹きつける話芸が光る、愉しい科学読み物だ。(840字)

 

補足:著者は今年3月末で23年間過ごした阪大を退職した(公式ブログより)。

http://www.bio.sci.osaka-u.ac.jp/~oguraa/index.htm