活字耽溺者の書評集

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『死者は語らずとも』 フィリップ・カー著 柳沢伸洋訳 PHP文芸文庫

死者は語らずとも (PHP文芸文庫)

肌感覚で突き付けられる歴史と現実

 私は本書の主人公ベルンハルト(ベルニー)・グンターの追っかけファンである。ボクサー顔負けの強靭な腕力、ナチズムが闊歩するドイツでも屈しない精神力、いかなる時でも忘れない皮肉……。だから、グンター・シリーズの新刊を読むというのはまさしく至福の時間だ。翻訳小説がメインでないレーベルにもかかわらず、このシリーズの邦訳を出し続けてくれるPHP文芸文庫には喝采を送りたい。

 内容に入ろう。本書は私立探偵ベルニー・グンター・シリーズの第6作で、2009年にCWAヒストリカルダガー賞を受賞したハードボイルド・ミステリである(過去作については『変わらざるもの』『静かなる炎』のレビューに書いたので割愛)。今作は二部構成で、第一部はオリンピック開催を控える1934年のベルリン、第二部はキューバ革命前夜の1954年のハバナが舞台となっている。

 1934年のグンターは若々しい。刑事を辞め、ホテル警備員として働く彼だが、非ナチ疑惑をかけてきた警官を殴り飛ばしたり、かつての職場の後輩刑事(ナチス支持者)に訓戒を述べたりと、広がるナチズムへの嫌悪があらわになる場面が多いからだ。

 もちろんシリーズ恒例のロマンスもある。相手は、ユダヤ人排斥を推し進めるドイツを取材するアメリカ人ジャーナリストのノリーンだ。グンターは彼女に請われ、運河に浮かび上がったユダヤ人ボクサーの死体の謎をともに追いつつ、情熱的な恋愛関係を結んでいく。ところが、華やかなオリンピック会場建設計画の裏側でめぐらされる謀議が、二人の仲を引き裂かんとするのであった……。

 と、ここまでが全体の三分の二を占める第一部の梗概なのだが、実はこれは第二部へ繋がるほんのプロローグにすぎない。体力も気力も衰え、ハバナでドイツ帰国を希う壮年のグンターに襲いくる艱難辛苦の数々が、すべてこの1934年に端を発しているからだ。それも、単純な伏線回収ではない。歴史の潮流を肌感覚で感じさせ、物語の本筋になめらかに溶け込ませつつ、不可避の現実をグンターと読者に突き付けていくのである。

 毎度思うけれど、著者の作品に横溢する迫力と技巧には驚嘆の一言だ。なにぶん長大だが、しかし、このカタルシスはそうそう味わえない。ファンとして、続刊をいつまでも待ち望む。

 

死者は語らずとも (PHP文芸文庫)

死者は語らずとも (PHP文芸文庫)