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活字耽溺者の書評集

翻訳ミステリ、サスペンス、ノンフィクション等の書評。産経新聞書評欄に不定期で寄稿。

『或る「小倉日記」伝』 松本清張 新潮文庫

或る「小倉日記」伝 (新潮文庫―傑作短編集)

生き様を決めるとき

 努力のモチベーションの一つは、真っ当に評価されることである。この短篇集の主人公たちはみな、自身の境遇やコンプレックスにめげず、芸術や文芸、学問の世界でひたすらに才能を燃やして己が道を進む。

 しかし、それらの世界もまた清らかではあらず、理不尽な世の趨勢、渦巻く嫉妬や偏見に巻き込まれた主人公たちは、最後まで陽の目を浴びることなく消えていく。これほど恐ろしい現実はないのではないか。本書は、そんな人々を描き出した、松本清張の初期の傑作短篇集である。

 収められた12篇のうち、表題作、『菊枕』、『断碑』、『石の骨』の主人公にはモデルとなる人物が存在し、彼らの伝記小説とも読むことができる。実際に彼らがそのような人生を送ったのかは不明だが、彼らを選び出したところに、清張が強く心惹かれる部分が何かあったに違いない。清張の私小説だという『父系の指』は、ひときわ暗い情念を纏っている。

 重苦しい話が続き、精神的に暗くなること請け合いであるが、中には推理小説風味であったり、色恋沙汰などがテーマとなっていたりする作品もある。ラストの『箱根心中』の、秘密の箱根旅行が事故によって心中の道となる従兄妹同士などは、角度を変えれば幸せだったと言えなくもない。

 そこから全体を俯瞰して見ると、主人公たちはとことん悲惨な道を辿るが、そんな中でも支えてくれている人間がいることに気付かされる。しかし、彼らにはその存在衣が見えていない。それこそが彼らの不幸の最たるものである。努力が報われなくとも、見てくれている人間はいる、と。

 芸術にしろ、学問にしろ、熱中すると往々にして盲目的に陥りやすい。人生を懸ければ尚更である。時には冷静になって、後ろを振り返ってみるべきなのかもしれない。

 

 最も完成度の高い表題作を、松本清張の境涯と合わせて読んでみる。芥川賞受賞のこの一篇は、清張が職業作家として覚悟を決めた作品だと考えられているからだ。

 北九州小倉に住む田上耕作は、先天的な神経系の障害で左足が麻痺しており、言葉を上手く喋ることも困難な青年である。しかし、頭脳は明晰で、小中学校の成績はズバ抜けていた。

 彼は、母のふじと二人だけで貧しい生活を送っていたが、昭和十三年、森鷗外が軍医として小倉に赴任していた際の日記が散逸していることを知り、自らの足でこれを取材し補完しようと決意する。母をはじめ周囲の支えもあり、境遇に負けじと全身全霊で取り組む耕作。だが、そんな彼の前に戦争が立ち塞がる……。

 松本清張は、1909年小倉生まれの作家。幼少から文学への関心を持っていたが、作家としてのデビューは非常に遅かった。まず、中卒で給仕となり、その後小倉市内の印刷所に再就職する。印刷所が潰れると、版下職人となって、朝日新聞九州支社で広告版下の仕事に就く。

 1942年、33歳でようやく正社員となるが、戦争が激化し、衛生兵として朝鮮半島に赴くことになる。終戦後、家族を養うため朝日新聞に復職し、勤務中に書いていた『西郷札』が入選。木々高太郎のすすめで1952年9月号の「三田文学」に発表した本短編『或る「小倉日記」伝』が直木賞候補となり、数ヶ月の時を挟んで芥川賞候補に回され同賞を受賞するに至った。清張は43歳、苦難の道のりであったと思わざるを得ない。

 実は、本短編は「三田文学」発表時と、芥川賞受賞後に文藝春秋に再掲載されたときとで、大きく改稿されている。登場人物を仮名から実名に改める、エピソードを付加するなどの変更を行い、より洗練された文章となっているのだ。清張は1956年から作家活動に専念し始めるが、すでにこの改稿から気持ちを固めていたと考えられる。

 田上耕作は志半ばで倒れる。その報われない結末に、精神的な疲労は凄まじい。だが、彼は生涯かけて己の道を突き進んだ。清張もこの作品で腹を括った。その脈々と流れる強靭な意志があらわれた文章に、深く胸を打たずにはおれないのだ。

 

或る「小倉日記」伝 (新潮文庫―傑作短編集)

或る「小倉日記」伝 (新潮文庫―傑作短編集)