読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

活字耽溺者の書評集

翻訳ミステリ、サスペンス、ノンフィクション等の書評。産経新聞書評欄に不定期で寄稿。

『歩道橋の魔術師』 呉明益 天野健太郎訳 白水社エクス・リブリス

歩道橋の魔術師 (エクス・リブリス)

郷愁覚える上質な台湾文学

 最近、東アジア文学が注目を集めている。例えば、今年の3月発表のTwitter文学賞海外部門第一位『愉楽』は中国現代文学、4月に授賞式が開催された第一回日本翻訳大賞受賞作『カステラ』は韓国文学であった。両賞とも、まだまだ知名度は高いとは言えないが、冷え込んだ外交関係とは裏腹に、言語の障壁は意外と薄いのではないかと思わせてくれる。

 閑話休題、本書『歩道橋の魔術師』は、1961年から92年にかけて台北に実在した大型商業施設「中華商場」を舞台とした連作短編集であり、台湾文学である。いくら隣国とはいえ、台湾の小説なんて馴染みがなく取っ付きにくいのではないか、と思われる方が多いかもしれない。断言するが、全くの杞憂である。この作品に横溢する「懐かしさ」は、日本人にとっても非常に近しく、郷愁すら覚えるほどであるからだ。

 物語は、2010年代の現在、語り手の一人であり作家である「ぼく」が、各短編の語り手に、幼年期を過ごした1980年代初頭の中華商場の思い出を聞いていくという形で進行する。当時台湾は経済成長の最中で、全部で八棟ある中華商場は、台北の繁華街かつ商店街の中心地であった。しかも、商場の上の階層は住居にもなっており、どこか日本の高度経済成長期を思わせるような、猥雑で濃密な地域社会を形成していたのだ。

 幼年期、少年期に刻まれた感情や記憶は、生涯に渡って消え去らない。語り手たちも中華商場で忘れえぬ体験をする。謎の神隠し、夢に現れた石獅子、淡い初恋、火事、寺の裏手に立つ娼婦、仕立屋の猫、宵闇を彩るネオン……。人ごみの熱気や仄かな死の匂いと、棟と棟を結ぶ歩道橋にいたという魔術師のマジックが、今見ているはずの世界の時間と空間を揺らがせ、別の世界へと誘っていく。

 著者呉明益は1971年台湾・台北生まれの小説家、エッセイスト。文学部の教授でもある。台湾の出版界では最高の評価を得ている作家だそうだ。彼もまた中華商場で育ち、自分の幼年期を回顧するエッセイを発表しているとのこと。だが、本書はあくまでフィクションであって、「ぼく」が著者自身であるかどうかは明記されていない。

 中年であるためか、語り手たちの記憶は鮮烈ではあるけれど、センチメンタルに陥らず、どこか寂寥感が漂う。透明で、染み入るような筆致から現れ出でたその深い趣は、いつしか読む者の幼年期も蘇らせる。他国のアジアンチックな混沌を描いているのに、感性の違いはほとんど感じられない。ジュブナイルとしても、芳醇な大人の物語としても、翻訳小説の入門としても読める、極めて上質な短編集だ。

 前述の両賞が来年も催されれば、本書はおそらく上位に食い込むであろう。

 

歩道橋の魔術師 (エクス・リブリス)

歩道橋の魔術師 (エクス・リブリス)