活字耽溺者の書評集

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【産経新聞より転載】『夜が来ると』 フィオナ・マクファーレン 北田絵里子訳 早川書房

夜が来ると

 

※本記事は2015年7月19日付産経新聞読書面に掲載された書評の転載です。

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不穏な気配漂う幻想小説

 オーストラリア、シドニー郊外の海辺で静かな余生を過ごしていた75歳の老女ルース・フィールドは、ある夜更け、家の中を獰猛なトラが徘徊する気配で目を覚ます。夢とは思えないほどの生々しさと切迫感に、自分の身に何かが起こる兆候を感じ取る。

 翌朝、彼女のもとを大柄な女性が訪ねてくる。名前をフリーダといい、自治体から派遣されたヘルパーだという。夫に先立たれ、息子たちは独立して海外に在住し、今の家族といえば飼い猫二匹のみのルースは、腰痛に悩まされていたこともあり、フリーダに家事全般を頼むようになる。

 前半は、ルースの人生観や初恋の思い出、気分にムラがあるが仕事熱心なフリーダとの交流が丹念に描かれる。クジラがたまに見られるという海辺の雰囲気が美しい。たおやかな文体から浮かび上がるルースの孤独に、ややもすると幻想小説のような印象を受ける。ただ、リアリティのあるトラの夢だけが、空想と割り切れない異様な存在として横たわっている。

 だが、老いのためか、ルースの記憶は次第に曖昧となり、日常生活に支障を来たすようになると、物語は緊張感を帯び始める。すなわち、ルースは小説の手法でいうところの「信頼できない語り手」となり、彼女の認知や思考がどのくらい頼りになるのか判然としなくなるのだ。そのような視点の間隙から不穏な気配が漂い出し、気が付くと予断を許さないサスペンスとなっている事実に驚かされる。

 著者は1978年生まれ、シドニー出身の作家。すでに短編を何本か発表しており、初の長編となった本書は、オーストラリアの著名な三つの文学賞に輝いた。カバー絵にも描かれたトラは、訳者あとがきによれば安全を脅かすものの象徴とのことである。

 虚実が綯い交ぜとなった世界で、薄氷の上を歩くような状態のルース。終盤、不穏な気配の出所は判明し、一つの決着を見せる。が、叙情と寓意がちりばめられたこの物語の解釈はそれだけにとどまらない。読むたびに奥深さを感じられる、とても不思議な作品だ。

 

夜が来ると

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