活字耽溺者の書評集

好きな本を自由気ままに書評するブログ。

『朝のガスパール』筒井康隆 新潮文庫

朝のガスパール (新潮文庫)

虚構と現実の壁を破壊する「読者参加小説」

 ご注意願いたいのは、この文章がすでに小説の一部であるということだ。つまり、虚構「朝のガスパール」はすでに始まっているのである。……

(中略)

 読者にはこの虚構に参加していただきたい。いや。展開にかかわった以上、その読者はこの虚構の作者であると同時に登場人物になることさえあり得る。作者が作中に登場することは、今となってはさほど珍しいことではない。……

 1991年10月8日付朝日新聞連載小説『朝のガスパール』は、このような呼びかけの記事で幕を開けた。本書は、一日一回の新聞連載の特性を活かし、「読者参加小説」という日本初の実験の一部始終を記録した、メタ・フィクションの比類なき傑作である。

 物語は、月が二つ夜空に浮かぶ砂漠を部隊が歩いている場面から始まる。日本から派遣された日本人26人で構成された小部隊だ。しかし最近隊長の様子がおかしい……。

 そんなコンピューターゲーム「まぼろしの遊撃隊」に熱中しているのは、金剛商事常務の貴野原征三である。一定程度の知性と教養が要求されるゲームで、接待にも使えると社内でも話題となっていた。そんな彼の妻の聡子は、株のオンライントレードで巨額の負債をつくり、夫に秘密で多重債務を抱え込んでいた……。

 ここまで読んで、唐突に謎の会話が挿入される。「投書はだいぶ来たかい」「予告が載ってから連載開始までに三十一通、そのあと、これだけです」「わりあい少ないな。内容はどう」……。こんなやり取りが三回にわたって続き、読者は混乱する。

 実はこの会話、貴野原たちが登場する新聞連載小説を書いている小説家櫟沢と担当編集者澱口のものである。ややこしいが、つまり、この時点で、「まぼろしの遊撃隊の世界」「貴野原たちの世界」「小説家櫟沢の世界」の三つの世界の存在が示されたのだ。

 読者の要望が反映されていることを示すため、櫟沢は「SF的展開はやめてドメスティックにしてほしい」との投書を聞き入れる。すると、貴野原たちの世界では、セレブな登場人物が大勢出席したパーティが開かれ、その描写が延々と描かれるのだから、驚くほかあるまい。

 櫟沢は、長いパーティ場面に苦情が殺到していることを明かす。ここへ来てようやく、読者は現在進行形で進むこの連載小説に、「小説家筒井康隆の脳内」を介して、「自分たちの世界」が組み込まれているのを真の意味で理解するのだ。

 新聞連載と同時進行で、「電脳筒井線」と呼ばれる電子掲示板がASAHIパソコンネットに設置された。今のインターネットの元祖である。こちらも、掲示板の住人と似たような人物が作中に登場したり、投稿が物語に反映されたりするなど、大きな役割を果たした。今で言う「荒らし」や「炎上」といった現象も発生した(この様子は、『電脳筒井線 朝のガスパール・セッション』という題で全三巻のペーパーバックにまとめられている)。

 連載の流れは、SFシーンを希望する読者と、ドメスティックな展開を望む読者で真っ二つに割れ、櫟沢は懊悩する。物語もそれに合わせて揺れ動く。櫟沢の妻の貞操を巡って争いが起きる、登場人物が大量虐殺される、等々。

 追い詰められた櫟沢は、「レベルの壁崩壊」、すなわち虚構と虚構の間ないしは虚構と現実の壁を破壊する強硬手段に打って出る。そして五重の世界を巻き込んだ物語は、読者の意見へのブラックジョークと痛罵を交えながら、怒涛のごとくラストへ向かうのである。著者の頭脳と腕力には心底驚かされる。

 当時の熱狂ぶりが、著者のスラップスティックな文体と、SF作家としての経験を通して行間から立ち昇ってくる。今の時代に、これだけのセンセーションを起こせる作家がいるだろうか。こんな大がかりな実験小説は、後にも先にも本書だけであろう。1992年日本SF大賞受賞。

 

 

朝のガスパール (新潮文庫)

朝のガスパール (新潮文庫)

 

 

電脳筒井線―朝のガスパール・セッション

電脳筒井線―朝のガスパール・セッション