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活字耽溺者の書評集

翻訳ミステリ、サスペンス、ノンフィクション等の書評。産経新聞書評欄に不定期で寄稿。

『鼻行類』 ハラルト・シュテンプケ 日高敏隆・羽田節子訳 平凡社ライブラリー

鼻行類―新しく発見された哺乳類の構造と生活 (平凡社ライブラリー)

虚構を現実化させる情熱

 1941年、日本軍の捕虜収容所から脱走した男は、南海のハイアイアイ群島に漂着する。そこで彼が見たものは、鼻で歩行する哺乳類、“鼻行類”であった。本書は、その鼻行類の生態系や行動様式の詳細な観察記録だ。

 ――という驚きの序文だが、もちろんまったくのフィクションである。そんな生物はおろか、生息域の群島ですら架空だ。しかし、嘘っぱちだからと言って、低俗な読み物のレッテルを貼ってしまうのは早計である。なぜならば、学術書のパロディでありながら、生物学の研究論文としては、あまりにも完成度が高いからだ。

 まず、一際目を引くのは、表紙にもある、鼻行類のイラストである。本書には、彼らの解剖図から、生活スタイルのスケッチまで、興味深い図版が数多く挿入されている。パラパラめくってみるだけでもとても面白い。

 説明も手が込んでいる。たとえば、表紙の生物は、跳鼻類のランモドキ科「アンケル・ヴァニラ・ランモドキ」という名である。説明を一部引用すると、「ふつうこの動物は尾でじっと立っており、遠くからみると、大きな花に似ている。この類似が生じるのは、大きな耳、中央の皮膚冠、平たい鼻が《花弁》として頭のまわりをとり囲み、鮮やかな彩りを見せている一方、胴体は地味な緑色で一見目立たないためである。」

 いかにも論文らしく、客観的で抑制のきいた描写である。ここからわかるとおり、本書はあくまでも論文の体裁を遵守しており、目次も「序論」「総論」「各グループの記載」「参考文献」「索引」と、素っ気なさが漂っている。

 鼻行類の特徴をおおよそまとめると、彼らは、ネズミやウサギ程度の大きさで、体を下にして鼻を歩行や捕食に使うことで独自の進化を遂げた生物で、四肢が完全に退化してしまっている種もいるとのことである。

 そんな奇妙な生物など有り得ない、と一笑に付してしまう向きもあろう。しかし、今日でも、アマゾンの奥地などの未開の土地で、新種の動物や昆虫が発見されているのだから、鼻で歩く生物がいてもおかしくはない。むしろ、ここまで詳細に生態が記録されている生物のほうが少ないのではないだろうか。

 特筆すべきは、訳者二人が日本有数の動物学者であることだ。とりわけ、日高敏隆氏は、日本に動物行動学を紹介した研究者の一人であり、京都大学名誉教授も勤め上げた人物である。訳者あとがきには、フランス留学中に原書と出会って仰天し、そのあまりの面白さに翻訳をすぐさま決心した顛末が綴られており、本書への愛着が窺える。

 何より感動的なのは、本書は徹頭徹尾、どこにもフィクションなどと書いていないのである。本文は言うまでもなく、あとがきに至るまでだ。「この本の正しい読み方」と題された垂水雄二氏の解説では、海外の新聞や学術雑誌での『鼻行類』の取り上げられ方を引き合いに出し、こんな大真面目な動物学の本を、日本の生物学者はまともに論評した例がないとして嘆息している。

 なお、鼻行類の棲み処ハイアイアイ群島は、1957年に秘密裡に行われた核実験による地殻変動で、研究所もろとも海の底へ沈んでしまった。わずかな資料と挿絵を残してくれたシュテンプケ教授と、訳者二人を含め、この本の出版に携わった人々の愛に喝采を送りたい。

 

 

鼻行類―新しく発見された哺乳類の構造と生活 (平凡社ライブラリー)

鼻行類―新しく発見された哺乳類の構造と生活 (平凡社ライブラリー)

 

 

シュテュンプケ氏の鼻行類―分析と試論

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