活字耽溺者の書評集

好きな本を自由気ままに書評するブログ。

『九マイルは遠すぎる』ハリイ・ケメルマン 永井淳/深町真理子訳  ハヤカワ・ミステリ文庫

九マイルは遠すぎる (ハヤカワ・ミステリ文庫 19-2)

熟成された“純粋”本格推理小説

 本書は、安楽椅子探偵ものとしては傑作の部類に入る短編集である。なぜならば、この作品の探偵は、犯罪学に造詣があるわけでもなければ、優れた直観力を持っているわけでもない。真に純粋な推理だけで謎を解くのだ。しかも、表題作の短編は、アメリカの推理雑誌のコンテストに投稿されるまで十四年かかったという労作ミステリである。

 本書の探偵役は英語・英文学教授のニッキイ・ウェルト、表題作の舞台は表紙の地図にも描かれているカリフォルニア州フェアフィールド界隈である。ワトソン役である書き手の「わたし」は、ニッキイ教授と推論についての議論中、彼から、十語ないし十二語からなる一つの文章から導き出せる論理的な推論をお目にかけようと問われ、ふと頭に浮かんだ、

「九マイルもの道を歩くのは容易じゃない、まして雨の中となるとなおさらだ」

“A nine mile walk is no joke, especially in the rain”

 といった十一語の文章を題として提示する。ここから教授は推論を述べ始める。話し手はうんざりしていて、雨が降ることを予想していなかった――等々。実は、これは読者への挑戦ともなっている。なぜなら、この単なる知的な推理ゲームの結論が、なんと昨夜発生した列車殺人事件の真相と合致してしまうのだから、驚嘆と言うほかあるまい。

 ハリイ・ケメルマンは1908年マサチューセッツ生まれのアメリカ人で、高校や大学の教師職を歴任した経歴を持つ。寡作家で、長編は『金曜日ラビは寝坊した』などのラビ・シリーズ、短編はエラリー・クイーンも絶賛した本書の八編のみである。

 本書の「序文」には、このニッキイ教授が誕生してから単行本になるまでの経緯が著者の手で綴られている。それによると、ケメルマンが教室で英作文を教えている際、「言葉というものは真空中に存在するものではなく、通常の意味を越える含蓄を持つもの」であることの用例として、卓上にあった新聞の見出しにあった「九マイル」の文章を黒板に書いて、可能な限りの推論を、と生徒達に出題したそうだ。

 しかし、この試みは成功せず、ヒントや助言を与えていたケメルマン自身がこの推論に惑溺してしまい、幾度もの試行錯誤の末、十四年後に推理小説として一日で書き上げ、陽の目を浴びる運びとなった。

 以後は、一年に一編程度で鷹揚に書き続けていく。ニッキイの推理を論破しようとする連中が次々に返り討ちにあう『わらの男』、とある教授が死の直前までやっていたチェスの盤面から推理を組み立てる『エンド・プレイ』、隣人の湯沸かし器の蒸気の音から推理する『おしゃべり湯沸かし』……。八編が揃ったときにはすでに二十年の歳月が流れていた。

 とはいえ、作品内で時間的隔絶はほとんど感じられず、読者は各編に横溢するロジックを存分に味わうことができる。時間を掛けて熟成されただけあって、どの作品も高水準だ。無論、旧来の探偵小説と同じく、ニッキイのキャラクターも魅力的で、「わたし」との掛け合いも十分に楽しめる。 

 論理的に考えろ、想像力を鍛えろとはよく言われるものの、実際どのようにすれば良いのかわからなかった経験は誰しもあるのではないか。本書は、そのようなときに論理的思考を養える、最適の小説と言っていいだろう。また、上下巻だったり、二段組だったりと分厚い作品が増え、内容も社会派で重厚なものが多くなった昨今、本書のような軽く読めるパズル的本格ミステリは稀有な存在ではないだろうか、と思う。

 

九マイルは遠すぎる (ハヤカワ・ミステリ文庫 19-2)

九マイルは遠すぎる (ハヤカワ・ミステリ文庫 19-2)

 

 

金曜日ラビは寝坊した (ハヤカワ・ミステリ文庫 19-1)

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