活字耽溺者の書評集

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『見張る男』 フィル・ホーガン著 羽田詩津子訳 角川文庫

見張る男 (角川文庫)

のぞき男の私小説

 まるで存在感のない人間がいる。ごく一般的な容姿容貌を持ち、いつも静かで、周りの景色に溶け込み、波長を合わせて目立たぬよう振る舞う。本書の主人公ヘミングはそういう、学校や職場に一人はいそうなヤツである。

 だが彼に全く特徴がないのかと言うと、そうではない。むしろ、その影の薄さを活かして発揮される彼の趣味はだいぶ気持ち悪い。その趣味とは、家に忍び入っての人間観察、すなわち「のぞき」だ。しかも、不動産経営者という売却した物件すべての鍵を持つ立場を利用し、時には他人の日常をじっと見張り、時には勝手に私物を漁り、時には邪魔な人間が破滅するように仕向け……となかなかのパラノイアぶりを見せる。

 そんなヘミングが、一人の若い女に一目惚れして入れ込んだ挙句、ある殺人を犯し、バレるかどうかの瀬戸際で懊悩するというのが本書のおおよその粗筋である。

 要はよくある異常心理の話だろ、と思われる方もいるだろう。しかし、本書の変態ヘミングは少々違う。彼に言わせると、「わたしはストーカーでも、のぞき魔でもない。他人と経験や人生を分かち合っているだけ」らしい。どう聞いても行為の正当化だが、実際に彼は盗聴も盗撮もしない。深入りしないのだ。ただ、儀式として、スプーンや片方のソックスなど、無くなってもすぐには困らないものを盗んだり、侵入の印を残したりはする。

 そう、本当に彼の言葉どおり、彼にとって「観察」とは、他人を見ていたい、知りたい、近づきたいというシンプルな欲求のあらわれなのだ。

 そのためか、ヘミングには同僚や顧客もちゃんといるけれど、乾いた語り口にはどこか孤独感が漂う。前半で述べられる彼の生い立ちはそれが顕著で、数々の武勇伝を持つ人気の同級生への憧憬や、嫌がらせをしてくる会社の先輩への復讐といったエピソードに、どうしてか虚しさを感じてしまう。読み手への呼びかけも差し挟まれ、手に汗握る不法侵入や殺人という犯罪サスペンスの要素を揃えてはいるが、どちらかといえばヘミングの私小説のようである。

 著名人のプライベートが高い関心を集めるように、他人の生活をのぞき見たいという欲望は、誰でも持っているものだ。ヘミングは、その情念に特別な愛を見出した、狡知でピュアな人物なのである。つまり殺人の露呈は、アイデンティティが暴かれるか否かという精神的危機でもあるのだ。どこに行き着くのかは、読んで確かめられたい。

 著者は英国生まれのジャーナリスト。巻末にはヘミング誕生のユニークなエッセイも収められている。

 

見張る男 (角川文庫)

見張る男 (角川文庫)