活字耽溺者の書評集

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【産経新聞より転載】『典獄と934人のメロス』 坂本敏夫 講談社

典獄と934人のメロス

※本記事は2016年2月28日付産経新聞読書面に掲載された書評の転載です。

窮地で結ばれた信頼関係

 獄塀全壊。大正12年9月1日の関東大震災によって横浜刑務所が陥った窮状である。家屋の倒壊や広がる大火災で横浜中が地獄絵図と化すなか、構内にも火の手が迫り、時の典獄(刑務所長)の椎名通蔵は、監獄法第22条「解放」の適用を考える。天災に際して、囚人の避難も護送も不可能であった場合、24時間に限って囚人を解放することができるのだ。しかし、1千人規模の解放は前例がないうえ、脱獄だと間違われれば不要な混乱を招く。帰ってくる人数も見当がつかない。

 それでも椎名は、典獄として全責任を負う覚悟を決め、「囚人に鎖と縄は必要ない。処罰より更生」という信条のもと、囚人たちを信じて、同日午後6時30分、解放を宣言。その数、934人。本書は、元刑務官の著者が、この『走れメロス』さながらの出来事を、30年にも及ぶ取材によって描き出した驚異のノンフィクションノベルだ。

 一時的に自由となった解放囚たちだったが、不測の事態が次々と発生する。無実の罪で服役していた青年は、なんとか自宅へ辿り着いたものの、隣人の救助のために約束が果たせず、妹を身代わりとして刑務所へ走らせる。一方で、時間に間に合わず、近くの警察署に出頭しようとした2人の囚人は、流言飛語を受けて「朝鮮人を出せ」と叫ぶ群衆を目撃する……。

 このような状況下でありながら、囚人たちの大半が帰還し、未帰還者はいたものの、最終的には全員の無事を確認する。これだけでも驚くところだが、囚人たちはその後横浜の復興に尽力し、心から信じてくれた椎名の窮地を救うべく一致団結までするのである。

 さらに言えば、実はこの解放の記録は一切残されていない。史実として伝えられているのは、囚人の働いた悪事で横浜と東京の治安が悪化し、未帰還者が多数存在したことのみ。本書はなぜ真実が隠蔽されたのかも明らかにしてみせる。著者のその労力と、物語の随所で示される互助の精神が、現代で薄れがちな信頼のありようを爽やかに思い起こさせてくれる。

 

典獄と934人のメロス

典獄と934人のメロス